昨日、山梨県の白州と清里を訪れました。
尾白川渓谷で手足を川に浸し温泉に入り、清里では肌寒いくらいの涼を感じながら、1920mの高台から眺望を楽しみました。
新鮮で美味しい野菜や、いい素材で丁寧に調理された食事でも満たされました。
ひさしぶりの丸一日完全な休日で、自然にどっぷり浸かりエネルギー充電した感覚がありました。
裏を返せば、日常は都会の暮らしで自然のエネルギーは枯渇気味なのかもしれません。
今住んでいる家のそばにもちょっとした川や緑道はあります。
でもそれだけでは十分じゃないのでしょうか。
エネルギー充電できた今日はちょっと早起きして日の出の時間に起きてみました。
そして、近所を散歩しました。
すると早朝の爽やかな空気感と日の出特有の力強い陽の光を実感しました。
それを感じると、普段はそういう自然のリズムを無視して暮らしていることに気がつきました。
自分の用事が1日のサイクルを決める基準となっていて、基本的には時計が基準。
ときには時計すら無視して用事を済ませることに没頭したりします。
日の出や日の入りなんて、生活のリズムを作る上ですっかり関係ないものになっていました。
ひょっとしたらこういうことも自然と自分を分断する要因だったかもしれません。
同時に、自然の一部であるはずの人間である自分が自然と非同期で生活することは、非効率な時間の使い方である気もしてきました。
十数年前から、新月・満月や、春分・夏至、立秋・立冬など、暦を通じて天体との位置関係を意識するようになって、ひと月や一年の流れを感じやすくなった経験があります。
ある種、自然との共鳴が進んだのだと思います。
同じように日の出や日の入りを意識し、一日のサイクルに目を向けると、日々の暮らしの中で自然との共鳴がより強く感じられるようになるかもしれません。
インドの古典哲学アーユルヴェーダでも時間帯によってエネルギーが異なっていて、それぞれの時間帯に適した活動があると聞いたことがあります。
日本でも明治になるまでは、日の出と日の入りが時間を刻む基準になっていて、夏と冬では一刻(時間単位)の長さが違ったと聞いたこともあります。
今でも神社によっては、開門・閉門時間を日の出・日の入りにしているところがありますが、その名残りかもしれません。
しばらく日の出とともに起きる暮らしを続けてみようと思います。
自然と同期のとれた暮らしを実感できるでしょうか。
エネルギーの充電具合に変化があるかどうか、楽しみです。
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