冬至の気づき

今日は冬至でした。

古来、冬至には世界中でお祭りがあったようです。

イギリスのストーンヘンジや、ペルーのマチュピチュなど、
世界各地の古代遺跡で、冬至の日に光が差し込むよう計算された建造物が見つかります。

日本でも伊勢神宮の内宮、宇治橋の大鳥居から昇る日の出は有名です。

一陽来復。陰極まって陽と転ずる。

一年の中で最も日照時間が短いこの日は、今日からそれが伸びていく日でもあります。

そこから復活が連想され、復活祭としての冬至祭が行われるのでしょう。

そんな節目の一日ということもあり、例年この日に足を運ぶ場所があります。

そのうちのひとつは教会です。

クリスチャンではないですが若い頃から教会が好きで、時々思い出したように訪れていました。

その後あるきっかけで、冬至には、都心にある3つの教会を巡るようになりました。

インスピレーションをもらったり、意識が整ったりがあるようです。

さて今年も巡る最中に、自身の人間関係に関する大きめの気づきがありました。

気づきというより感覚的変化と言ったほうが正しいかもしれません。

僕は若い頃から一匹狼的生き方や、そうしている人を良しとするところがありました。

スポーツやその他の活動でも個人競技の方がカッコいい、
団体競技やオーケストラ・合唱などつるんでやるのはイマイチ、
という変な観念がありました。

今となってはそれらは、父親の生き方を肯定したかったり、人とのつながりを欲する反動だったんだとわかります。

今や合唱を演奏するようになったり、人が集まって作り上げる楽しみや良さを理解するようになりました。

仲間と一緒に和気あいあいと活動する楽しみです。

でも今日、それについて気づいたことがありました。

教会の席に座ってぼんやりと物思いに耽っていたときです。

場所柄、神、イエス、マリア、イエズス会の宣教師たち(ロヨラ、ザビエル、…など)、そして教会を訪れる自分たち、に思いを馳せていました。

ふと、中学生の頃聞いた「神のもとの平等」という考えが湧きました。

神の前では誰もが神の子、上下なくみな兄弟だ、というニュアンスだったでしょうか。

この考えでいくと、神を除いた、イエス、マリア、宣教師たち、信仰のある者もない者も含めわたしたち全員は、みな兄弟として対等なつながりの中にあります。

親子、先輩・後輩、お世話になってる・している、…など、さまざまな人間関係の中で日常的に忘れてしまいますが、このレベル感の平等・対等性があることがストンと腑に落ちたのでした。

例えば、
自分の親を見て、大いなる存在から創造されたものとしては自分と同じ、対等な兄弟とみる。
わが子を見て、大いなる存在から創造されたものとしては自分と同じ、対等な兄弟とみる。

概念としては理解していたつもりでしたが、腑に落ちたってことは本当には理解していなかったようです。

この気づきを経て、面白かったのは、帰り際のことでした。

一通り用事を済ませてカフェで軽い食事をしているときのことです。

僕が先に座っていたところ、隣のテーブルにふたりのマダムが来ました。

ふたりがけっこうな大声と笑い声で、皮肉交じりの愚痴大会を始めました。

たまに遭遇しますが、聴覚過敏気味なので、普段なら苦手なタイプです。

最初は「あぁ困ったな…」と思ったのですが、普段と意識を変えて捉えてみました。

一瞬、厄介な人たちと捉えそうになったのをこらえて、さっき腑に落ちた、より深い平等・対等性のつながりを意識してみました。

この人たちも自分と同じつながりある兄弟とみなすと、不思議とほとんど気にならなくなりました。

気が緩むと批判的になりそうになりましたが、今日のところは気にならなくなるところに戻れました。

そして、しばらくすると気が済んだのか、マダム達も落ち着いたトーンの会話に変わっていったのでした。

イライラすることもなく、面白く有益な経験でした。

2023年の取り組みとして、人間観を移行する 〜分離意識から脱却して、より統合された意識へ向かう〜 を意識していたので、この経験はひとつの成果だったかもしれません。

次の段階として、この感覚をできる限り多くの状況と人間関係に広げていきたいと思いました。

さて話は戻りますが、
冒頭の縁起が良さそうな龍の写真は、今朝早朝に訪れたもうひとつの場所、冬至祭を行う早稲田の神社でした。

今年も残り少ないですが、みなさま良い年をお迎えください。

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