振り回されないように、自分を作った

「アイデンティティを確立せよ」

ドラマのタイトルみたいですね笑。

冗談はさておき、
これは、僕の思春期の命題でした。

幼稚園や小学生の頃は、気の弱い子どもでした。
これといった主張もなく、
できることなら相手の望むようにしてあげたい、
と思うような子でした。
親に対してもそう思っていたし、
友達にもそう思っていました。

小学校のリレーで、抜かそうとした相手の顔があまりに必死で、
いいや、と力を抜いてしまったことを、今でも覚えています。

ただ、その生き方は、
けっこうしんどかったんです。

親、友達、先生。
言うことが、人によってまちまちなんですよね。
あちらを立てれば、こちらが立たない。
翻弄されて、混乱するばかりでした。

そして、いったん言うこと聞いてあげると際限なく言ってくる。
それにも閉口していました。

だから、当時の幼い頭で知恵を絞りました。

自分というものを確立すれば、振り回されなくなる。
いいように使われなくなる。
何が正しいかも、自分で考えられるようになる。
この世界で生きるためのルールを、
“自分で”学んで、自分で決められるようになる。

主体に、なれる、と。。

いま振り返ると、
あの決意「アイデンティティを確立せよ」には、
ひとつの前提が紛れ込んでいました。

あのリレーで力を抜いてしまった自分は、
「ひ弱だったんだ」という前提です。
自己主張ができない、
自分を引っ込めてしまう気の弱い子だ、
というわけです。

でも、本当にそうだったのかな、と思うんです。

たしかに昭和の価値観ではそうだったのでしょう。
「巨人の星」や「アタックNo.1」では決して評価されません苦笑。
(わからなかったらすいません)

必死な相手が、見えてしまう。
見えたら、どうにも譲ってしまう。

それは、直すべき欠点だったのでしょうか。
それとも、自分という人間の、
幼い頃から表現されていた性質だったのでしょうか。

わからないまま、僕はそれを欠陥として扱い、矯正にとりかかりました。
当時、十代の僕にできる、精一杯の自衛だったのだと思います。

似たような決意をした人は、多かったかもしれません。
しっかりしなさい、自分を持ちなさい、と言われて、
その通りにしてきた。
そして実際、それで生きてこられた。

あなたにも、覚えがあるでしょうか。

これからときどき、
この「自我」にまつわる思い出や気づきを、
綴っていこうと思います。

かつてしっかりと確立したものを、
少しずつ手放してきて、今もその最中だからです。

生きづらさから確立したものですが、
やりすぎて固くてガチガチになると、これまた生きづらくなるのです。
“いい加減”があるのでしょうか。

僕もまだ途上です。
進行形の話として、おつき合いください。


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