個人的な節目の年でもあり、今年は棚卸しの一年にしようと決めています。
できるだけ自分自身を見直す。そんな中で、あらためて気づいたことがあります。
それは、自我の扱いについてです。
人には、自我と本質がある。僕はそう考えています。
本質とのつながりが強くなるほど、人は自分らしく、幸せに生きられる。
反対に、自我に囚われるほど、生きづらくなっていく。
自我を抑え込むと、何が起きるのか
では、自我を無視して本質だけに目を向ければいいのか。
というと、事はそれほど単純ではありません。
自我を無視したり抑え込んだりすると、行き場を失った感情が内側に残り、かえって意識を引っ張ることがあります。
しかもそれは、人それぞれの自我が摩擦しあう日常の中で、普通に生きていれば普通に起きること。
感情のわだかまりが生まれるのも、子どもの頃の心の傷(インナーチャイルド)がうずくのも、多くはこの摩擦の中です。
だから、自分のことであれ、相手のことであれ、自我をある程度ケアしながら、本質に目を向け続けていたい。
「相手だけの都合」でも、本質は見えなくなる
ただ、気をつけていないと、本質を忘れて自我だけをケアすることにもなりかねません。
自我のケアが「自我だけのケア」に傾きはじめたとき、どんなサインが出るのか。
自分を振り返ってみて、ひとつ見えてきたことがあります。
お互いにとっての佳きことよりも、「相手だけの都合か、自分だけの都合か」という感覚が強くなる。それがサインです。
自分だけの都合に囚われることは、分かりやすいかもしれません。けれど、相手だけの都合に合わせ続けることでも、本質を見失う場合があります。
僕は幼い頃、自分を後回しにして親に尽くしていました。親を喜ばせたい、役に立ちたい。子どもなりに真剣でした。
けれど、その関わりの中で、僕自身が本当に感じていることは置き去りになっていました。相手の都合を満たすことに懸命で、お互いにとって何がよいのかを見られなくなっていたのだと思います。
あの頃の自分を責めたいわけではありません。ただ、相手に合わせることと、相手の本質を大切にすることは、同じではなかったのだと今は感じます。
二択の外にある、第三の道
相手に合わせるか、自分を通すか。その二択から一歩離れ、お互いにとっての佳きことを尋ねてみる。僕にとっては、それが第三の道です。
見抜いて、見過ごす
その第三の道を歩くために、僕が心がけていることがあります。
自他の自我を見抜き、そして見過ごす。
見過ごすとは、見て見ぬふりをすることではありません。自我の反応に気づいても、それを自分や相手そのもの、すなわち「本質」と取り違えないことです。
本質がいつも土台にあることを思い出しながら、人との関係を育んでいきたい。
棚卸しの中で、あらためてそう思っています。
あなたは、どんなときに「相手だけの都合」や「自分だけの都合」という感覚が生まれますか?
次にその感覚に気づいたら、ほんの少し立ち止まってみてください。
そして、お互いにとっての佳きことは何か、自分に尋ねてみてください。
答えは出なくてもかまいません。尋ねるその一瞬に、意識は本質の側へ少し戻ります。
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